2月、立春を迎えましたね。
年末年始実家帰省中にも少々トラブルがあり、疲れが抜けないままに最愛の祖母が他界し、先週葬儀も終えました。
祖母は、100歳を迎え大往生でしたので、悲しむよりもおめでたい事ではありましたが・・やはり、もう会えないのだという寂しい思いは募ります。
年末年始に帰省していた時には、コロナ感染予防の為面会できない状態でしたが、東京に戻ってすぐ連絡があり、「会わせたい人がいれば今のうちに」とのことでした。
次の週末に予定を開けて面会に伺ったところ、思いのほか元気で、ごく普通に会話もでき、孫である私をちゃんと認識していました。
きっと会えるのは最後、と覚悟はしていたのですが、その10日後。夜に就寝し、そのまま目覚めることはなかったようです。
100年生きて、最後の時を眠ったまま迎えられるというのは幸せな事ですよね。
少々、奇跡的な出来事があったので、忘れないように書き留めておこうと久々にブログを開けましたが・・・・偶然にも、今日は私の44歳の誕生日であり、立春という新しい年の始まりです。
ふと、何かしようと思うのは、見えない力なのか、潜在意識なのか、「思い立ったが吉日」といわれるように、何かの導きなのでしょうね。
さて、100歳の祖母の葬儀のことですが、葬儀自体が終わり、棺にお花を入れていた時の事。
葬儀場の方に「他にお棺に入れたいものはございますか?」と聞かれ、私は自分のバックを確認しました。この日、私は祖母からもらった手鏡や子供たちがもらったぬいぐるみ、昔の写真をもっていたので、祖母のお気に入りの何かがあるかな、と思ってバックを確認したのです。
出てきたのは、とっても小さな折鶴。
これはね。
4年前に他界した父が折ったもので、父の葬儀の際に父の棺に入れたもの。
父は、たばこを吸うときに切り取る包み紙で折鶴を作っていて、小さくとっても丁寧な折鶴は、たくさんあるときらきらと光ってかわいらしかったのです。
4年前に父の棺に全部入れたと思っていたのですが、偶然、喪服用のバックのポケットに1羽だけ残っていたようです。
実は葬儀のために喪服を用意していた時、バックからチョコレートの包み紙で作った折鶴が出てきたのですが、それは娘が父の火葬の間に時間つぶしで折ったものだったので、葬儀の前に捨ててきたのです。
でも、今回葬儀の際に出てきたのは、たばこの包み紙で折られた父の折ったもの。
母親にとって、どんなに年を重ねても子供に先立たれるのはつらかったと思うのです。
晩年の祖母と父は表面上、あまり仲が良くなかったので生前に素直な愛情を伝えられていなかったのかもとも思います。
この世の別れの最後の時に、息子の作った折鶴を胸に抱けたのはうれしかったのでしょう。
父の亡くなった後、スピリチャル的な体験をとても重ねてきているので、今回の出来事も何らかの見えない力が働いているんだなと・・。こういう時の感情を表す最適な言葉がわからないのですが・・・。うれしい?感謝?不思議?奇跡?守られている?どれも当てはまるけど、ぴったりしない。
だから、なんかよくわからないのだけれど、見えない力に対して感謝している。
そう、息子に対しても。
息子は安定的不登校ですが、見えない力で守られているから。
「きみの人生は絶対に大丈夫」だと思っている。
私が口にした言葉は叶っているから、ゼッタイに大丈夫。
学校に行かなくても、多少失敗しても、トラブルがあっても、必ず好転するから。
立春であり、44歳スタートの日に、この気持ちになれたことはとても大きい。
この1年、見えない力への感謝と、絶対に大丈夫という強い信念で、過ごそうと思います。